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Project Name 「姫が墓整備事業」

 大分空港のある国東半島の武蔵町の今市城址の裏山に「姫が墓」という中世のものと思われるお墓があります。このお墓(供養塔)について、過疎化が進む中、管理の手もコロナ感染の影響で手薄となり、今や忘れ去られてしまおうとしています。

 当協会としては、その歴史的な背景を検証し記念碑を作り、桜の木を植えて地域の人たちの憩いの場にしたいと考えています。

 さらにクラウドファンティングで資金が集まれば地盤の整地、植樹祭を行い、歴史公園としての環境を整備して後世に引き継いで行こうと考えています。 

 熊本においても、細川邸のある立田山の麓に浅井長政と織田信長の妹のお市の方との次男が生き延びて細川藩に擁護され、代々のお墓があるという事で、こうした歴史に埋もれた部分のスポットを当てて行ければと考えています。当協会はこうした町おこしの事業にもサポートし、地域の活性化をお手伝いしたいと考えています。

 豊後の国の戦国大名、大友宗麟は一時は九州を席巻する勢いだったが、天正6年(1578年)、薩摩の国の島津義久との耳川の戦いに破れ、凋落の一途をたどって行く。このあと、内外で離反する動きが出る中、島津氏が勢力を伸ばして、大友氏はついに豊臣秀吉の助けを借り、これを受けて豊臣秀吉の九州征伐が始まって、島津氏を圧倒して豊臣政権は天下統一を盤石なものとした。この間、衰退してゆく大友家の家臣団の謀反・反乱が相次ぎ、その3大支族の一つ田原氏の反乱が1580年に起こる。これが田原親宏・親貫親子の反乱で、ロイス・フロイトの記録では田原氏の船団が府内に上陸して攻める計画が嵐のために中断したが、これが成功していたら、大友氏は危うかったとされている。
 田原親宏が病死したあと、その遺志を継いで養子に入った田原親貫が兵をあげ府内を攻める。しかし、大友宗麟・義統親子はこれを防ぎ、反撃に出て安岐城を包囲しついに落とす。田原親貫は西国東の鞍掛城に立てこもり応戦。「国東半島の関ヶ原の戦い」ともいわれるこの戦いは、国東半島全域を巻き込んで約1年近くの間続いたという。
 この時、落城に追い込まれた安岐城に続き、武蔵田原氏の今市城の落城もあったと思われる。その時の姫👸がこの地に埋葬されたのではないか、「姫が墓」の主ではないかと考えられている。

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​竹藪を切り開いて姫が墓の清掃活動をする故郷の仲間たち

武蔵今市城の台地.GIF

​道路の右側の高台に田原氏の今市城があった。

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​平野部から今市城址のある高台を望む

武蔵町地図.GIF
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