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​浅井長政の子万菊丸が熊本で

生きながらえたという歴史があった!!

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 浅井鼎水という人物が・・・万菊丸の末か。あの淀君(茶々姫)の弟君が生きていた!

 2009-07-04の熊本日日新聞「言葉のゆりかご」に、浅井鼎水(新九郎)が紹介されていたという。
元治期に京都留守居役を勤めたとされているのが浅井長政のご子孫で副奉行、側用人などを勤めたとされている。晩年は細川家墓所泰勝寺内に閑居したとされる。「死後も殿様のお側で御霊をお守りしたい」とのことで、細川刑部家の墓所がある慈眼庵(今は無い)跡地に眠っている。浅井家のお墓のすぐ隣には、豊前小倉時代の浅井家を経済的援助したという牧家の墓所が在る。(浅井家と牧家との関係は、杵築史談会発行の、久米忠臣氏著「生きていた浅井長政・お市の次男-万菊丸」に詳しく紹介されている。)
 牧氏は豊前に六千石の飛び地の所領があり今の豊後高田市の真玉の別邸に万菊丸を招いたという記録がある。


 

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​浅井家累代の墓の横に碑文が刻まれている

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​ 碑文のタイトルは「遠祖誌」とされ、近江浅井氏とある。浅井長政とお市の方の名前があり、お茶々と万福丸の名がみえる。万福丸は織田信長の命令で亡くなったため、幼死とある。その隣に幾丸(のち出家)とありこれが万菊丸だと言われている。出家していたので死を免除されたという説もあるがさすがの信長もお市の方の気持ちにも配意したのかとも言われている。お茶々、のちの淀君と万菊丸は交流があったとされている

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​     写真の一番奥が浅井家のお墓で、その前に16世紀後半からの牧家代々のお墓が並んでいる。

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